日本初の金融王、二宮金次郎についてのお話しです。

お金にまつわるetc

二宮金次郎の話し

二宮金次郎は、天明七年(1787)小田原藩栢山村に生まれました。

金次郎に取って大きな影響を及ぼしたのは、勉学好きな父利衛門と母よしそして、働き者だった祖父銀衛門です。

祖父銀衛門は、必死に働き大地主となりました。金次郎の勤勉さも祖父ゆずりだったのかも知れません。

しかし、祖父が汗水流して得た土地を父である利衛門は、近隣の住人達の借入れ要請に応えその大半を失ってしまいます。

最後のとどめは、寛政七年の台風でした。台風がもたらした洪水により、多くの田畑が水につかりました。

金次郎は、この台風から一家を再興させその名を広めたのですが、作家の芥川龍之介は「金次郎の出世は本人にとっては名誉であるが、その両親にとっては、はなはだ不名誉な物語である。」と語ったそうです。

まさにその通りで、貧乏の底へと転げ落ちた両親と二宮家を再興した二宮金次郎の話しは、両親に取って見れば恥かしい話でしかありません。

祖父銀衛門が必死で働き得た富を全て失ってしまったわけですから。

祖父銀衛門は、二宮万兵衛の次男として生まれ、必死に働き大地主となりました。

銀衛門が長男だったら、ここまで必死に働き大地主になることは無かったでしょう。

大地主になった銀衛門ですが、ふと気づきます。

必死に働き豊かにはなったけど、自分には相続をさせる子供がいない・・・と。

そこで実兄の次男坊である利衛門とその妻よしを養子と迎えるのでした。

働き者の祖父と勉学好きな父は、金次郎を語るには欠かせない存在です。

ちなみに銀衛門は金次郎誕生の年に亡くなっています。

直接は知らない働き者の祖父ですが、その遺伝子は洪水で全てを失った金次郎の中で目覚めます。

金次郎は勤労であり勤勉でした。両親のいいところを受け継いだと言えますね。

金次郎の愛した父利衛門も14歳の時に亡くなります。

更に不幸なのは葬儀のために、最後に残った土地も手放さなければなりませんでした。

正に無一文からのスタートです。

土地も無い金次郎が何をしたのか?

金次郎は村の入会地で薪を採り、それを城下町で売り始めたのです。

昔校庭にあった二宮金次郎の銅像は、この時の様子がモチーフとなっています。

14歳の金次郎は、一家の大黒柱となり母と2人の兄弟のために必死で働きました。

しかし、そんな母も金次郎が16歳の時に他界してしまいます。

孤児となった金次郎と弟友吉、富次郎は、金次郎が父方の伯父に残る2人が母方の川久保家へと引き取られることになります。

ここから3年間金次郎は、伯父の万兵衛宅で過ごすことになるのですが、この時期に基礎となる蓄えを築いたと考えられます。

ある時のこと田んぼに稲の苗を植え終えると、金次郎は捨て苗の存在に気づきます。

それを拾い自分で開墾をした土地に植えていったのです。

当時、検知は6年に一度行われていました。つまり検知が行われるまでの間は、無税で米を収穫することができたんですね。

法の抜け穴と言うやつです。

この開墾と捨て苗により蓄えができ、金次郎が伯父万兵衛の家を出る時には20俵の量になっていました。

こうして金次郎は着々と一家再興に向けて歩み始めるのでした。